1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号
これは私のおつた收容所の番号が二百四十六條という番号が付しておりました。ここのカラパスの收容所には、絶えず六千乃至八千人くらいのソ連の囚人がおりまして、この中に私が送られました際に、やはり三十九名近くの、数字は忘れましたが、約三十名程の日本人が各地からおのおの刑を貰つて、この收容所に集合しておりました。
これは私のおつた收容所の番号が二百四十六條という番号が付しておりました。ここのカラパスの收容所には、絶えず六千乃至八千人くらいのソ連の囚人がおりまして、この中に私が送られました際に、やはり三十九名近くの、数字は忘れましたが、約三十名程の日本人が各地からおのおの刑を貰つて、この收容所に集合しておりました。
アルマアタにはわれわれが行つた当時は一万人以上おつた。收容所も十くらいわかれております。その中で收容所と収容所の関係もありませんし、われわれの收容所は大体一割五分くらい死んだというようなくらいで、実際の統計はわかりません。
それから満洲国の官吏ですし、その後新しい特別な收容所になつてから、人の名前は出したくないのですが、一九四八年九月二十七日ごろ、新しい特別の收容所ができまして、そうしてその收容所に憲兵、警察官、協和会、特務機関、容疑者、こういうものが入つた收容所にコカウントからいわゆる地方人の方、抑留者の方が来たわけです。
そうして毎日当番を使つて、私の入つた收容所の例をあげましても、大体コムソモリスリ第一收容所は三千名ばかりおりまして、私の大隊は将校が百名で、一割程度の将校があつたと思います。柴という佳木斯の独立工兵隊の中隊長であつたのが大隊長で入つておつたが、ここでは彼らは毎日のように碁、将棋、マージヤン、そういう状態で、しかも当番を使つて非常に栄耀栄華の生活をやつておる。
○高山証人 まずカードがこのくらいありまして、復員調査というのですか、その中に、捕虜になつて、それからどこの、どういう收容所を経て帰つて来たということは、われわれは復員業務に必要なことですから記入したわけでありますが、さらに別にハバロフスクの地図を書けとか、あるいはハバロフスクの君のおつた收容所、それは戰車工場なら戰車工場は一体どういう生産能力を持つておるのか、あるいは君のおつた飛行場にはどういう飛行機
すでに帰還された方からお聞きになつたでしようが、捕虜の間における通信連絡というものは禁ぜられておりますし、ただお互いの情報をそのおつた收容所からこつちに何名、あつちに何名おつたということを聞くだけです。
特に去年あたりのデモは、私のおつた收容所は中央に道路があるのですが、そこを向うの赤軍あるいは各会社、団体のものすごいデモが流れるのでありますが、日本人が收容所の中でプラカードを立ててデモをやつておるのを、窓の外から笑いながら眺めて行くというような状態であります。これは一年中で一番大きな行事ですから、メーデー以上に大きなものが行われます。
まず私の行つた收容所は六箇所ですが、至るところに日本人は百二、三十人ないし二百人いた。ソ連の刑法五十八條にかかつた者は、十一号ラーゲルに四百七十二名とかいるそうです。それは私が六号ラーゲルに行つて病院におりましたから、その病院の中から出ることができず、五十八條の人は、お名前は二、三しか知つておりませんが、四百以上の人が十一号ラーゲルに收容されております。 簡單でありますが以上で終ります。
○証人(山森勇太郎君) カラガンダにおいて、囚人收容所でない者、即ち我我のおつた收容所には大体九分所に百三十名、これが只今の協和会関係者、それから行政官、それから八六部隊の者、こういつた者が百三十名、それから十五分所には大体四百名ぐらいおつたものと想像します。それで大体普通の捕虜收容所におつた者が六百名、それからその他の囚人の收容所に抑留されておる者、これが大体四百名、こういう話であります。
小林少佐は外蒙ウランバートルの郊外の收容所におつた時代に、蒙古人からノモンハン当時の捕虜が約九百名小林少佐がおつた收容所に收容されておつた。そのうち将校は何か叛乱の企てがあると称して将校は全部統殺されたそうであります。一部下士官も含めて将校、下士官、将校は全員、下士官は一部銃殺を行われたそうであります。後の者はその翌年当りいずれかへ連れて行かれた、こういう話を聞いております。以上であります。
これは武裝解除されて入ソするまでにおつた收容所です。ここに陸軍墓地がありますが、この陸軍墓地には約二百近くの墓標が立つておつたと思います。
それから最終集結のナホトカに参りましたときには、これは日本兵は私共のおりました收容所には、初めに入つた收容所には三百人くらいおつたのじやないかと思われます。その外の建物から毎朝その横を労働のために通つて行くのが、暗いが人員を私計算して見ますと二、三百人はおつたように思われるのでございます。それから鉄道線路の横に材木工場がございましたが、そこでも相当な数が働いておりました。